|
|
|
|
|
|
|
|
曼殊院 拝観料 500円 075-781-5010 |
最澄が比叡山に1200年前に鎮護国家の道場として建立された一宇に始まるとされ、後に門跡寺院となった。
江戸初期に、桂離宮を造営した桂宮智仁親王(後陽成天皇の弟)の第二皇子良尚法親王が院主になり、現在の姿になった。
現在残る大書院・小書院・庫裡は江戸時代に建てられたもので、重要文化財。
各所に桂離宮に通じる繊細な意匠が見られる。 |
|
|
|
|
金福寺 拝観料 \300- 075-791-1666 |
|
芭蕉と交流のあった鉄舟和尚が芭蕉庵を建て、後に京都出身の与謝蕪村が庵を再興。
蕪村の墓や、蕪村門下の俳人の句碑が並んでいる。
村山たか女が安政の大獄で生きさらしの刑に処せられた後、終生暮らした寺である。 |
|
|
|
|
詩仙堂 拝観料 \500- 075-781-2954 |
詩仙堂
現在詩仙堂とよばれているのは、正しく は凹凸窠であり、詩仙堂はその一室である。 凹凸窠とは、でこぼこした土地に建てた住居という意である。 詩仙堂の名の由来は、 中国の漢晋唐宋の詩家三十六人の肖像を狩 野探幽に描かせ、図上にそれら各詩人の詩を丈山自ら書いて四方の壁に掲げた詩仙
の間〟を中心としているところからよばれる。
丈山がこの堂に掲げるべき三十六詩人と その詩を選定したのは、寛永十八年、五十 九歳の時であった。 これは、我が国の三十 六歌仙にならったもので、その選定には林羅山の意見も求め、左右十八人、それぞれ の組合せに意味をもたせた。蘇武と陶潜、 韓愈と柳宗元等七対は羅山の改定した所で ある。
建造物は後に寛政年間、多少変更を見たが、天災地変の難を免れ、庭園と共に往時をそのままに偲ぶことが出来る。
丈山はここに"凹凸窠"十境を見たてた。 入り口に立つ(1)小有洞の門、参道をのぼり つめた所に立つ (2)老梅関の門、建物の中に入り (3)詩仙の間、読書室である(4)至楽巣(猟芸巣)、堂上の楼(5)嘯月楼、至楽巣の脇の井戸(6)膏盲泉、侍童の間 (7)躍淵軒、庭に下り、 蒙味を洗い去る滝という意の(8洗蒙瀑、その滝が流れ込む浅い池(9)流葉瀰、下の庭に百花を配したという (10)百花塢、その他丈山 考案の園水を利用して音響を発し、鹿猪が 庭園を荒すのを防ぎ、又、丈山自身も閑寂 の中にこの音を愛し老隠の慰めとしたという僧都(添水、一般には鹿おどしともい
う)等は今も残されている。
詩仙堂の四囲の眺めを見たてた〝凹凸窠 十二景”は画家に絵を描かせ丈山自ら詩を 作ったものである。丈山の遺愛の品である 詩仙堂六物〟、多数の硯、詩集である「覆 しょうしゅう 「醤集」等多数の品々が残されている。これ
らは毎年五月二十三日の丈山忌後、二十五 日から三日間、「遺宝展」として一般公開し ている。
現在は曹洞宗大本山永平寺の末寺である。
詩仙堂の四季にはそれぞれ趣きがあるが、特に五月下旬の“さつき” 、十一月下旬の 紅葉等がすばらしい。
|
石川丈山
石川丈山は、天正十一年(一五八三) 三河国(現在の愛知県安城市) に生まれた。石川家は父祖代々徳川譜代の臣であり、丈山も十六歳で 家康公に仕え、近侍となった。松平正綱、本多忠勝等はその親族である。 三十三歳の時、大坂夏の陣では勇躍先登の功名を立てたが、この役を最後とし徳川家を離れ、京都にて文人として藤原惺窩に朱子学を学ん
だが、老母に孝養を尽すため、広島の浅野候に十数年仕えた。その後 母を亡くした丈山は五十四歳の時、京に帰り相国寺畔に住居した。寛 永十八年(一六四一) 五十九歳で詩仙堂を造営し、没するまでの三十 余年を清貧の中に、聖賢の教えを自分の勤めとし、寝食を忘れてこれ を楽しんだ。
丈山は隷書、漢詩の大家であり、また我が国における煎 茶(文人茶)の開祖である。
寛文十二年(一六七二) 五月二十三日、従容として、九十歳の天寿を終わった。
|
詩仙堂リーフレットより |
|
|
|
|
|
圓光寺 拝観料 \500- 075-781-8025 |
臨済宗南禅寺派の尼寺。
徳川家康が作らせた、現存する最古の木版活字が残っている。
境内には、金福寺で障害を終えた井伊直弼の女スパイ、村山たか女の墓がある。
本堂前の庭園は紅葉の美しさで知られる。紅葉シーズンにはライトアップ夜間拝観が行われる。 |
|
|
|